凄惨な事件のニュースを僕たちは見るべきなのか

https://www.bbc.com/japanese/48428901
小学生ら19人刺され、小6女児と39歳男性が死亡 川崎の路上

川崎で多くの子どもたちを含む人々が傷つけられ、2人の命が失われる事件が起きました。

亡くなられたお二人のご冥福をお祈り致しますとともに、被害に遭われた方々の1日も早い心身の回復をお祈り申し上げます。

この許されざる、凄惨な川崎の事件での報道を見ながら考えたことを少し書いてみようと思います。

なぜ一人で死なないのか

この事件の結末で加害者は自ら死を選んでしまいました。その結果、彼がなぜこのような凄惨な事件を起こしたのかという真意は闇の中に葬られることになりました。

彼がどのような動機で多くの人を傷つけ、そして命を奪ったのか、もはや誰にもわかりません。
これから彼の生い立ちやこれまでの生活、彼を知る人の証言などから、彼がこの事件を起こすに至った動機などが推察されるのでしょう。

この社会への絶望?
この社会での自分への絶望?
おそらく一元的な動機はそんなものでしょう。
しかしこの動機だけでは他人を巻き込む理由になりません。
絶望から逃げるだけなら自死すれば良いからです。
最終的に自死を選んで実行できた彼は、多くの良識的なコメンテーターが言うように「死にたければ一人で死ね」たはずなのです。

なぜ一人で死ぬことを選ばず、多くの見知らぬ人を巻き添えにしたのか。その理由を想像する中で、僕は一つの可能性を推察しました。
それは、ひょっとしたら、自身の退場だけでは浮かばれないという怨念じみた想いなのではないか。
つまり自分が存在したという爪痕みたいなものを残さないと死にきれない、そんな想いがこのような凄惨な事件を起こしたのではないかというものです。

これはあくまで僕の推察です。

ですが、もしもこのような身勝手な動機があったとしたなら、僕たちはもうこれ以上このような事件を深掘りするニュースを見るべきではないのかもしれません。

本能がこのニュースを見させてしまう

僕には二人の娘がいます。そんな僕にとってこのニュースはとても苦しく、正直見るに耐えません。

ですが、その一方でそのニュースが流れると目が離せない自分もいるのです。

犯人は自死してしまった。彼の生い立ちを探ったとしても本当の動機を知るすべはもうないとわかっているのに、彼の生い立ちなどから彼がなぜこんなことをしたのか知りたいという気持ちが湧きあがってしまうのです。

これはカリギュラ効果の一種なのでしょうか。

怖い映画を両手で顔を覆いながら指の間で観る感覚。

理性は拒否しているのに、本能がそのニュースから目を離させてくれないのです。

理由を知ればこの不安や恐怖から逃げられるかも知れないという本能的な直感。理由なんてニュースを見たって分かるはずがないことは理性的な部分では理解しているのに。

これも知りたいということなんでしょうか。

でも僕が本当に知りたいのは彼が何でそんなことをしたのか、ということと、それを知ることにより今後彼のような人間が自分の娘を含めた罪のない誰かを傷つけないようにするための対策なのです。

テレビで流れる報道がそこにたどり着けないことを知りながらも、僕はテレビのニュースを見てしまう。テレビがくれる情報なんて知りたくもないのに。

この感覚は多分僕だけではないと思います。

こんな凄惨な事件、見るのも聞くのも嫌、と思いながらもどの局に回しても垂れ流される情報をテレビを消すでもなく何となく見てしまっている人は多くいるのではないでしょうか。

本当に僕たちは彼のことを知りたいのか

テレビはよく国民の知る権利を振りかざします。

僕みたいな本当はそんなこと知りたくないけど、本能的に目が逸らせない視聴者の目線が集まることで、テレビは視聴者が知りたいと思っていると判断するのだと思います。

でも51歳で引きこもりだった男性の生い立ちや人生なんて、知りたいでしょうか。その彼の人生と彼の数少ない知人や近所の人から伺える彼のパーソナリティーを元にして作られた、見てきたような嘘の動機も、正直僕は興味がありません。

そして、何ら加害者と関係のない、理由なく巻き込まれただけの小学校やその生徒、被害者家族の情報も知りたくない。
被害現場に花を手向ける見知らぬ親子を接写するマスコミの人たちを見るにつけ、僕は嫌悪感すら抱いてしまうのです。

そんな忌避すべき興味のないものも、恐怖で目をそらすことができない僕たちは見てしまうのです。

でも、多分、これはきっと、加害者にとっては思う壺なのかもしれません。

51歳の引きこもり男性の取るに足らない人生が、この事件によりクローズアップされ、今日も知りたくもない僕たちの茶の間に最新情報として垂れ流され続けています。

この状況は彼にとって成功なんじゃないだろうか。

そう思えてしまうのです。

加害者は自分を見て欲しいから犯罪を犯す。
マスコミは視聴者が加害者のことを知りたいと思っているので報道する。
視聴者は何でこんなことが起こってしまったのか知りたいから報道を見る。

彼の孤独や絶望、社会に対する不満や不信、そういったものを表現するとき、単独での自死では誰のもとにも届きません。
でもこんな犯罪を犯せば、マスコミが全国に届けてくれる。
そんな自己顕示の場にマスコミが使われてしまっているのではないか。

そうだとすれば、僕たちはこのような凄惨な事件があった時には、ニュースを見たいという衝動を抑え、深掘りするような報道には見向きもしないのが望ましいと思うのです。

国民が知りたくなければマスコミは報じません。
マスコミが報じなければ加害者がこのような事件を起こす理由の一つがなくなります。

次なる「無敵の人」を生まないために

ネットスラングに「無敵の人」というのがあるそうです。
社会的信用など失うものが何もなく、他人を巻き込んだ犯罪に走ることに何の躊躇もない人のことをいうそうです。

今回の加害者がどういう人かはわかりませんが、話を聞く限りではこの「無敵の人」の境遇に限りなく近いように思われます。

彼にとっては生きることは執着することではなく、また私立の小学校に通うような成功者を妬み、そんな成功者達を傷つけることで社会に爪痕を残したと満足しながら死んでいったのかもしれません。

次なる「無敵の人」がこの加熱する報道を見てどう思うか。

このような犯罪を犯せば、社会に爪痕が残せて満足感が得られそう。

もしも、これが成功事例だと受け止められてしまったら、と思うと恐怖で眠れません。

マスコミにはこのような事件を扱うときはできる限りさらっと、淡々と扱って欲しいと思いますが、それはなかなか難しいでしょう。

そうだとすれば、僕たち視聴者側が興味を示さないでスルーすることが最も近道な気がします。

凄惨な事件があった時には、それを深掘りするニュースを僕たちは見るべきではない。
本能の立ち向かって理性でテレビを消すべし。

そうすることで次なる「無敵の人」がこのような犯罪を起こす芽を一つ摘み取ることができるのではないか。
そう思うのです。