「良い死」を迎えるために、医者が考えたこと

2019年3月15日

twitterで「苦しまないと死ねない国で、上手に楽に死ぬために『医者には絶対書けない幸せな死に方』」という記事にコメントしました。

連投して長めのコメントをしたのですが、語りきれていない感じが残ったので、ブログにまとめなおします。

「良い死」を迎えるには

 ではどうすれば「良い死」を迎えられるか?
 これは、多くの人の死を見てきた医師に聞くのが手っ取り早い。つまり、「自分なら」どんな終末期医療を望むか、と医師に尋ねるのである。[良い死、悪い死、普通の死]でも考察したが、「良い死」として医者がすすめる死に方は、当の医者が患者に施している方法と、全く異なる。つまり、医者は、自分にしてほしくない医療を、患者に対して行っているのだ。

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 この技は、自分や家族について医師と相談する際にも使える。ある治療や処置を施すかどうかについて、医師から判断を求められたとき、「先生ご自身がこうなられたら、どういう処置を望みますか」と聞くのだ(家族の場合なら「先生のお母さまが~」と置き換えればよい)。

http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2019/03/post-a404.html

「良い死」を迎えるためには、医師に「自分なら」どんな終末期医療を望むかと尋ねる、とある。

これを質問されたら、僕はすごく困ってしまうと思う。

なぜなら、僕が思い描く僕の理想の最期が、その患者さんにとっての理想の最期ではないかもしれないからだ。

「良い死」とは実に抽象的な表現だ。
良い死を迎えたいか?と問われれば、おそらく全ての人がYESと言うだろう。
だが、良い死とはなんだろう。

最愛の家族に囲まれた穏やかな死。
家族やたくさんの友人に見送られる死。
家族に迷惑をかけないで施設で一人迎える死。
病気を受け入れ、何も治療を行わない死。
100歳まで生きるのだと意気込み、できる限りの延命を求め逝く死。

その人が望む死は様々で、100人いれば100通りの良い死がある。

僕が「自分なら」と聞かれて答えられる終末期医療は、あくまで僕が理想とする最期の迎え方であって、それが聞かれた相手にとって本当に正解かはわからない、いや、おそらく正解ではないのだ。

医者は最善を尽くしている

twitterに書いたように、「自分ならどうしますか?」などと尋ねられなくとも、ほとんどの医者は常に患者の生死に際して最善を尽くしている。

最善を尽くしているからこそ、まだ生きている患者さんを目の前にして、軽々に「良い死を迎えるための最善の策」などを語ることができない。

患者さんはまだ生きているし、このまま死にゆく運命であるかはわからないからだ。最良の結果は患者さんが元の元気な姿に戻ることだろう。

良い死に方、最善の最期を迎える方法などの著作は枚挙に遑がないが、この手の本は往往にして「死」という結果ありきで書いてあることが多い。

だが、「死」は病状の悪い人が近日中に必ずたどり着くゴールではない。当然助かる人も中にはいる。
24時間対応の在宅支援診療所として訪問診療を行い、何十例も老衰を看取ってきた僕でも、老衰の人がいつ逝くかなんてわからない。
癌の終末期と異なり、老衰と健康な老化との境界は不明瞭だ。
老衰に向かいつつあって、このまま亡くなるのだろうと予測し、患者さんの家族にそう説明して覚悟を決めてもらっても、そこから回復する人を僕は幾人か見てきた。
体調が悪化した老人がこの後このまま亡くなるのかは神様しか知らない。

だから、生きている患者さんを目の前にして、このまま逝くとは誰にも確約できない現状で、自分なりの良い死を迎えるための最善の策なんて医者には言えないのだ。

だから僕たち医者は公平中立な情報提供を行う。
公平中立な情報提供をするとこうなる。

「このまま何もしなければ亡くなるかもしれませんが、治療をしたらひょっとしたら助かるかもしれません。どちらを選択しますか?」

これが死に瀕する患者さんやその家族を前に言える医者としての最善の問いであり、この問いへの患者さんやその家族の回答を確認した上で、それからも医者はその回答に答えるべく最善の治療を行う。

『「良い死」として医者がすすめる死に方は、当の医者が患者に施している方法と、全く異なる。つまり、医者は、自分にしてほしくない医療を、患者に対して行っているのだ。』と書いてあるが、その治療を今日び医者が勝手に実施するわけがない。当然家族の了解をとって、その方針に向かって治療を行なっている。それが自分にしてほしくない医療だとしても、患者さんや家族が「できる限りのことをしてください」とそれを望んだから、それこそ最善と信じ実施しているのだ。

「できる限りのことをしてください」と言う理由

「このまま何もしなければ亡くなるかもしれませんが、治療をしたらひょっとしたら助かるかもしれません。どちらを選択しますか?」

と問われると、今は「できる限りのことをしてください」と言ってしまう家族が多いのだろう。少しでも助かる見込みがあるのならそれに賭けたいという想いは理解できる。

僕にも90歳を過ぎたおばあちゃんが二人いる。
二人とも元気だが、もしも突然病気を発症したら、これまで元気だっただけに治療方針に悩むだろう。
何歳になったとしても昨日まで元気だった肉親に「もう十分生きたから」などと思う人はなかなかいない。

高齢で病状の悪い患者さんがいて、医者が治療をしたら助かるかもしれないと伝える時、医者が伝えるそのニュアンスは、患者さんの家族が受け取るニュアンスとちょっと異なっていると、15年医者をしてきた今では感じる。

医者にとって助かるとは「亡くならない」ことだ。病気を治療し命を繋ぐことが医者の仕事であり、そのためのトレーニングを受けてきたからだ。治療は亡くならないことを主眼においていて、治療により回復した後の生活強度の低下などは治療しているときはあまり念頭に置いていない。

一方患者さんの家族にとっての助かるとは「病気以前の状態に戻る」ことをイメージしているように見受けられる。

今まで元気に一人で生活していたご高齢の方が、病気で臥せって一命はとりとめたものの歩けなくなったなんてことはよく経験することだ。それはつまり健康寿命を迎えたということなのだろう。

病気から回復したが、生活強度は以前の状態に戻らなかった患者さんを見て、医者としては家族の望み通り助かって良かったと思う。だが、家族としてはこんなはずではなかったと思うのかもしれない。

そのニュアンスの差異こそが患者さんの家族に「できる限りのことをしてください」と言わせているのかもしれない。

どうすれば「良い死」を迎えられるのか

最善が「良い死」に繋がっていない現実

生活強度が落ちるなら落ちるとちゃんと説明してくれればよかったのに、そうすれば積極的な治療は選ばなかったのに、という家族がいるかもしれない。僕の場合は落ちる可能性についても当然説明している。多くの医者が説明しているだろう。

でもこれも可能性に過ぎない。必ず生活強度が落ちるとは口が裂けても言えない。そうじゃない人もいるからだ。そしてどのくらいの割合で生活強度が落ちるかという確たるデータはない。だから分からないのだ。

そうすると生死の時と同じで「生活強度は落ちるかもしれませんが落ちないかもしれません」というあやふやな説明をせざるを得ず、結局このあやふやな説明では、家族としては「できる限りのことをしてください」という選択を選びたくなってしまうのだと思う。

この「できる限りのこと」をした上でいつか迎える死が多くの人にとって「良い死」ではないとすれば、今僕たちが最善だと信じて実施している医療が患者さんや家族にとって最終的に満足のできる「良い死」に繋がっていないということになる。
ではどのようにしたら「良い死」を迎えられるだろうか。

そのためには患者・家族側、医療側共に行うべきアプローチがあると思う。

患者・家族が行うべきこと

患者・家族側が行うべきアプローチは「良い死」の具体化と共有化だ。
先ほど書いた通り、「良い死」には明確で具体的な答えがない。
だからこそ良い死を迎えたい側が具体的な形にして、それを家族に共有しておいてもらわないと、いざという時に家族は本人がどのような最期を望んでいるかわからないで悩んでしまう。
悩んだ結果「できる限りのこと」を望んでしまうのだ。

つまり、患者さんは家族と元気なうちに自分の死について話しておく必要がある。
どこで、どのように亡くなりたいのか、できる限り生きたいのか、逆に医療に対し消極的なのか、呼吸が止まりそうな時人工呼吸器をつけるのか、心臓マッサージをするのか。
根を詰めて相談しようとすると、話し合うべきことはいっぱいあるし、重い話なのでなかなか盛り上がらないだろう。そして具体的な話をすればするほどいざという時の置かれる条件に合致しなくなる。真剣に肺炎になったらどうするかを話し合った結果、心筋梗塞で生死の瀬戸際に立たされたら、話し合いの意味がない。そして人が死ぬ理由なんて書けばキリがない。全ての病状を網羅して話し合うことはできない。

だからこそ大切なことは、根を詰めてどうなったらどうするなんて具体的な状況での対応を話し合うのではなく、普段からこまめに自身の死生観を家族と共有することなのではないかなと思う。
誰かが亡くなった話を聞いた時に「私もこんな亡くなり方がいい」とか、こういうのは嫌だとか、都度自分の死に対する感性を家族に伝えておくと、家族はそれらの考え方を参考に、いざという時に患者さんがどう望んでいるかということに想いを馳せてくれるのではないだろうか。
そこに家族の想いが加味されれば「良い死」にグッと近づける気がする。

医療が行うべきこと

一方で、医療側のやるべきことは患者さんを受け入れる環境の整備だ。
元の記事にあるようなステレオタイプの「良い死」はおそらく無駄な「延命処置はせず」「自宅で」「苦しむことなく」逝くことなのだろうし、きっとそう望んでいる人は多いのだろう。

なぜそれが多くの人にとって「良い死」のイメージなのか。それはおそらくそのような死を迎えることが現在の日本では大変難しいからだ。

まず自宅で死を迎えることは想像以上にハードルが高い。
近年在宅診療の報酬が見直され、在宅診療に参入する医療機関は以前に比べて多い。
だが、在宅診療を行っている内科医院は人口10万人に対し10程度しかなく、内科医院の25%にも満たない。
そもそも多くの人が「良い死」とイメージする自宅での死を実現できる医療機関が限られているのだ。

医療側はこれを解消しなければならない。
患者さんが自宅で死にたいと望むなら、それを叶えてあげられるような環境整備が必要だ。在宅診療を充実させなければならない。

そのためには在宅診療に従事する医師が増える必要があるが、実際は増えるどころか減っている印象すらある。
僕の所属する地区では、内科の開業は僕が最後だ。それ以後の内科医院の開業はこの8年ない。
最近は開業志向の医師が少ない印象だし、専門医機構が主導している総合診療専門医の後期研修も専攻医が少ない。

本来なら在宅診療へ患者さんが移行することが、それを望む患者さんにとっても、医療費を抑制したい国にとっても良いのだろうが、残念ながら現場がついてきていないと感じる。

多くの人が望む自宅での死を叶えることができる環境整備は急務だが、それに対する策は一介の町医者である僕には思い浮かばない。

「先生ならどうしますか」という質問はずるいと言った意味

死を迎える時、患者さんと家族の絆が試されている、と僕は思う。

患者さんと家族の間にある長い歴史の中に患者さんが望む「良い死」へのヒントが隠されている。家族がそれを見つけることができれば、患者さんは「良い死」へ近づける。

僕はツイッターで「先生ならどうしますか?」という質問はずるい、と言った。

患者さんの生死を左右するであろうその決断は、他人の判断に頼るには重すぎるからだ。 人の生死の分岐点で医者とはいえ他人のオススメを聞くのは家族として責任放棄だと思う。

そこには家族の生死を自分で決断したくないという弱い部分があるのではないか。

そこから逃げるのはやはりずるいと僕は思う。

人が逝く時、残された家族は必ず後悔する。
本人の意思を尊重して治療を施さなかった家族は、「あの時治療してあげればもうちょっと長く生きたのだろうか」と後悔するし、
「できる限りのことをしてください」と病院で頼んだ家族は、「もっと楽に逝かせてあげればよかった」と後悔する。

最愛の家族が亡くなった時、全て満足するなんてことはありえない。

だから。だからこそ、その決断は誰のオススメでもなく家族がすべきだ。

その決断とそれによってもたらされる結果を全てひっくるめて、家族が受け入れることこそが、患者さんが生きてきた最後の証なのだと思う。

訪問診療をする家庭医として、僕は家族が出した結論に全力で寄り添う覚悟で仕事をしている。

患者さんと家族が求める「良い死」が最後にもたらされることを祈りつつ、今目の前の患者さんに全力で向き合い、患者さんが元気であることに最大の喜びを感じている。