藤原道長と糖尿病

2019年1月8日

日本最古の糖尿病患者は藤原道長と言われています。

それより昔からいたのでしょうが、詳細な記録が残っているのは彼が最初と言われています。

「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることの無しと思へば」

と謳うほど隆盛を誇った彼の生涯ですが、彼がこの詩を謳った53歳頃にはすでに糖尿病の症状が進行していたと考えられています。

その記録は同時代を生きた藤原実資が残した日記「小右記」や藤原道長自身の日記「御堂関白記」に残されています。

最初に糖尿病を発症したと思われる症状が記されたのは彼が51歳のとき、小右記には度々道長が体調不良を訴え、口が渇いて水を飲む姿が描写されています。本人は3月ごろから口が渇いて水をたくさん飲み、だるいと訴えており、また周りから見ても顔色が悪く、やつれ、気力がないように見えるなど、病気の様子がはっきり出ており、先は長くないのではないかと心配されています。

これらの症状は飲水病と当時は考えられていて、同様の症状は道長の血縁である兄の道隆(享年43歳)や甥の伊周(享年37歳)にも認められていたという記述が残っています。

現代医学に照らし合わせれば、この症状は典型的な糖尿病の症状であり、糖尿病を専門にしない医師でもこの症状を見たら血糖値を測定してみようと考えるでしょう。そして、家族歴も明白なので、遺伝的素因が強い患者なのだなと思うはずです。

しかし当時糖尿病の概念はなかったため、得体の知れない病にかかったと思われていたようです。道長は口の渇きを癒すために常に杏2個を持って舐めていると書かれています。これは糖分が多く含まれているためおそらく逆効果だったでしょう。舐めれば舐めるほど口が渇いたと思います。

そしてその2年後には上記の詩を詠むのですが、同時期にはすでに胸痛や視力障害を訴えていて、病状が進行していることが読み取れます。

胸痛は狭心症だった可能性が高く、視力障害は白内障を発症したものと考えられます。これらも糖尿病による合併症の可能性が高いです。

そしてそれより9年の後、慢性的な下痢と背部の腫瘍(膿瘍)により道長は亡くなります。

慢性的な下痢はおそらく糖尿病性神経障害に伴う下痢症、背部の膿瘍は高血糖による感染症でしょう。

道長は享年62歳でした。兄や甥に比べ長命だったのは道長の生命力でしょうか、当時の日本が誇る最高の御典医の力でしょうか。あるいは晩年出家し仏門に身を置いた彼の信仰心の賜物でしょうか。

この欠けていない満月のように、この世が自分のためにあるように思う。

そう謳う前後から道長の健康は損なわれていったのはまさに皮肉としか言いようがありません。

しかしおそらく、道長の体調はそれよりずっと前から悪かったはずです。

51歳で突然糖尿病を発症して、53歳で狭心症や白内障などの合併症を起こすのは時期が早すぎるのです。

それより前に糖尿病を発症しており、51歳にしていよいよ症状が我慢できないものになったと考える方が自然です。

しかし、当時糖尿病に限らず科学としての病気の概念は当然ありませんでした。

飲水病という病気があり、それが道長自身とその家族に多発している。周りを見ると贅沢な生活を貪っている者ほどこの飲水病を発症している。

平安時代には病気に関してはまだ呪詛や祟りの類であり、飲水病を見た道長が栄華を誇る自分への恨みや祟り、呪いを疑うのは自然なことのように思います。

付け加えると、糖尿病に限らず、道長の周りは皆短命でした。先述の道隆が道長以外では最高齢でありそれでも43歳です。

それ故か道長はものすごく病気には敏感だったようです。権力を握った自分たち一族は権力を奪ってきた者たちから恨まれ、呪われている。だから病気になると考えたのでしょうか。

最初の詩を謳った年の翌年、症状が悪化したためか道長は政界を引退し出家します。

その後は浄土信仰へ傾倒していくのですが、これも悪化する病状を誰かの恨みや怨念と信じたが故の贖罪とも思えます。

そう考えると、一族を皆病気で失ってしまった時の権力者の孤独を感じ、なんとなくしんみりしてしまいます。

糖尿病という概念を道長が知ったらどう思うでしょうか。

呪詛や祟りの類ではないと安心するでしょうか。

力ずくで権力を握って栄華を謳歌してきた道長ですが、先祖は祀り、子孫にはきっちり仕事を委ねて出家しています。

出家後の信仰心もあつく、熱心に極楽浄土へ旅に出る準備をしていたようです。

用意周到な真面目な人なのです。

道長が病気について理解を深めたら、きっと真面目に糖尿病と向き合い、治療に前向きなちゃんとした患者さんになったのではないかと思うのです。