死んだら負け

2019年1月8日

とある有名芸能人が自殺抑止のために発した「死んだら負け」という言葉について少し考えてみた。

まずは昔話から。

僕は子供の頃勉強ができた。地元の小学校では学年で1番か2番だった。受験で地元の国立大学附属中学に入学して、そこでもトップ20くらいにはいつもいた。
勉強するのは好きだったし、やり甲斐も感じていた。
同じくらいの成績の友達がいて、いつも競うことがモチベーションになっていた。

勉強を頑張った甲斐もあってやはり地元で1番の県立高校に合格した。
祖父も父もこの高校出身だったから、とても喜んでくれたし、自分も誇らしかった。

でも、僕にとって、「勉強ができる」というアイデンティティのピークはここだったのかもしれない。
高校に入学すると、周りの同級生のレベルの高さに圧倒され、授業についていくのもやっとだった。それでも「勉強ができる」はずの自分を信じて頑張って勉強して、最初の定期試験に臨んだ。
結果は散々で、クラス45人中40番台だった。
クラスメイトから「フォーティーズ」と揶揄された時、今まで僕が作り上げてきたアイデンティティとか、プライドとかが音を立てて崩れていく感じがした。

すると途端に色々なことがどうでも良くなった。
勉強だけじゃなく、品行方正だった私生活すらどうでも良くなった。
学校に行くのは面倒臭く、かと言って家にいると親が心配するから、朝家を出てから、街をブラブラ徘徊して昼ごろに学校に行く、なんていう生活をするようになった。

余談だが、おすすめスポットは千葉城だった。当時は中にプラネタリウムがあって、60円だか70円だかで入館するとプラネタリウムも見放題だった。

そうやってフラフラ生きていると、アイデンティティのない僕には存在価値すらないのではないかと思えてきて絶望した。そんなことで絶望できるぐらいまだ若かった。

この状態で僕は不真面目な高校生生活を3年間過ごすのだけれど、3年間過ごしてその後立ち直ることができたのには、大きく二つの理由があったと思っている。

一つは部活。これは端折るが、演劇部などに入って色々やった。少なくとも放課後の学校には僕の居場所があって、それが僕に午後には学校に行かせる理由をくれた。

そしてもう一つは高校がとった対応だ。
高校は半ば不登校の僕を放置してくれた。
もともと放任主義の学校だった。校歌だって入学式で聞いたとき、これはもう卒業まで聞かないからとまことしやかに言われた。そして本当に聞かなかったし歌いもしなかった。
入学式で校長が「1年浪人すれば好きなところに行けるのだから、適当にやりなさい」みたいなことを言っていたと思う。
体育祭は自由参加で、騎馬戦は出席者の多いクラスが勝つみたいなシステムだった。

そんな学校だから、僕を適当に放置してくれた。
休んでも遅刻してもことさら家には連絡せず、教室で授業中寝てても起こされたりもしなかった。移動教室でも起こされず、起きたら誰もいなかったこともあった。
これは極端な例で、このやり方が正しいと言うつもりはないけれど、僕にはこの対応は良かったのだと思っている。

学校が家に連絡したらどうなったか。
おそらく親は怒るだろう。
学校が僕本人に叱責したとしたらどうなったか。
ごもっともな意見なので、反論できないが、本格的に学校が自分の居場所ではないと確信したかもしれない。 
いずれにせよ多分僕はそれらに反発して学校に行かなくなったと思う。
あるいは、それでも無理に学校に行かされていたら良からぬことを考えたかもしれない。

遅刻しても居眠りしてても学校は僕を許容してくれて、学校に登校した時には何食わぬ顔で受け入れてくれた。
その対応が完全に正しいとは思わない。
多分放置したことも、面倒なことはやらないという、どちらかというと後ろ向きな動機だったと思う。 ただ僕にとってはその対応が後に僕を立ち直らせるきっかけになった。 

自殺が繰り返される社会の中で、良識ある人たちが言う。

「死ぬぐらいなら学校に行かなくていい」
「死んだら負け」

まったくもって正しい。
正しいけれど、それは言わないで欲しい。
人に限らず動物は嫌なことからは逃げるようにプログラムされている。
放っておいてくれれば勝手に行かない。 

「死ぬぐらいなら学校に行かなくていい」という言葉には「本当は学校に行くのが普通」というメッセージが内包されていて、それがむしろ行かない人を苦しめる。

「死んだら負け」と言える人は負けていても勝ちを望める強い心を持っている人だ。本当に絶望している人は勝ち負けを考えられない。死んでも負けとは思わないから死を選んでしまうのだと思う。
そのような場所にいる人を追い込まないでほしい。

家族は「行きたくなったら行けば良い」とは言ってはいけない。
学校は「来たくなったら来い。いつまでも待ってるから」
などと言わない方が良い。
行ってほしい、来てほしいという気持ちが透けて見えて重圧になるから。 

ただ寄り添ってほしい。
何も言わなくて良い。
自然に振舞って、傷が癒えるのを待ってほしい。

そうしたら時間という魔法が傷を少しずつ癒してくれて、自分から動けるようになるから。
その時に笑顔で前と同じように受け入れてくれれば最高だ。

僕の挫折なんてテストの点数が低いなんていうくだらない理由が発端だけれど、人の価値観はその人でしか測ることができない。テストで順位が低いことは僕にとってはアイデンティティの喪失という重大な問題だった。

人は多かれ少なかれそれぞれ悩みを抱えている。
人から見たら些細な悩みでも、その人にとっては重大な悩みで、そのために一歩も動けなくなってしまったりしているかもしれない。

そういう人を身近で見かけたら、励まさず、理由も聞かず、ただいつも通り接して、成り行きを見守って欲しい。